東京地方裁判所 昭和53年(ワ)10238号 判決 1983年12月26日
原告
青木與子
同
青木信男
同
青木春夫
右三名訴訟代理人
鈴木篤
横幕武徳
平松充文
安田寿朗
鈴木利広
被告
医療法人社団同愛会病院
右代表者理事
中川義一
右訴訟代理人
高田利広
小海正勝
主文
一 被告は、原告青木與子に対し、金一五一五万五九七一円、原告責木信男及び青木春夫に対し、各金一三五五万五九七一円並びにこれらに対する昭和五一年三月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は第一項及び第三項に限り仮に執行することができる。
事実《省略》
理由
第一事実関係
一当事者
請求原因1(当事者)の事実は当事者間に争いがない。
二政雄の死亡に至る経緯
請求原因2(政雄の死亡に至る経緯)の(一)の事実のうち政雄が昭和五一年二月九日朝被告病院で診察を受けたところ急性虫垂炎と診断され同病院に入院したこと、同(二)の事実、同(四)の事実、同(七)の事実のうち被告病院の医師が腸管運動促進剤の投与、高圧浣腸等の治療を行つたこと、同(八)の事実のうち被告病院の医師が同年三月一日に政雄に対して手術を行つたこと及びこの手術の執刀医が漿膜を欠損し穿孔を数か所作り腸管を一メートル切除したこと、同(九)の事実のうち政雄が汎発性腹膜炎となり敗血症を併発し同月一九日午前五時一五分に死亡したこと、請求原因3(被告病院の医師の不適切な治療)の(一)の(1)の事実のうち初診時レントゲンに石灰化像が現われていたこと及び岡野医師が腰椎麻酔を施し自らが執刀医と麻酔医を兼ねて第一回前術を行つたこと、同(一)の(2)の事実のうち政雄が手術中に疼痛を訴え虫垂を探索することが困難になつたこと、同(一)の(3)の事実のうち岡野医師が第一回手術において筋弛緩剤としてサクシンを使用したこと、同(一)の(4)の事実のうち第一回手術は約二時間二〇分にわたつて行われたが結局虫垂を切除できなかつたこと、同(二)の(1)の事実のうち被告病院の医師が第一回手術ののち約二二時間経過した後に第二回手術を開始し虫垂を切除したこと、同(二)の(2)の事実のうち第一回手術によつて虫垂が切除できなかつたこと及び政雄の虫垂は穿孔を起こし腹膜炎を併発したこと、同(三)の(1)の事実のうち腸管運動促進剤を投与し浣腸を施行したこと、同(四)の(1)の事実のうち被告病院の医師が第三回手術を行つたこと、同(四)の(2)の事実のうち第三回手術において被告病院の医師が漿膜を欠損し穿孔を数か所作り腸管を一メートルにわたつて切除したこと及び切除した部分の吻合後の癒合不全が生じたこと、同(四)の(3)の事実のうち政雄が汎発生腹膜炎を起こし死亡したことは当事者間に争いがない。これらの争いがない事実に、<証拠>、鑑定の結果、を総合すると、次の事実を認めることができ<る。>
1 政雄は健康体で土木請負業に従事していたが、昭和五一年二月八日夜、夕食後胃の不快感を訴え、おう吐した。その夜はそのまま就寝したが、翌九日朝被告病院へ行き、松田医師の診察を受けた。その際の政雄の症状は、右回盲部に圧痛があるほか、筋性防禦及びブルンベルグ症状が認められた。またレントゲン撮影の結果右腹部に石灰化像が認められた。政雄は急性虫垂炎と診断され同日昼ころ手術のために入院した。その後岡野医師が政雄を診察した。筋性防禦は認められなかつたが、ブルンベルグ症状、マックバーネ点における圧痛等が認められた。
同日午後五時五八分から岡野医師が政雄に対する虫垂切除のための手術を行つた。岡野医師が一人で執刀医と麻酔医を兼ねて手術を行つた。岡野医師は腰椎麻酔を施したうえ手術を開始したが、政雄の虫垂が通常の位置になかつたので虫垂を見つけることができず、探索したが、手術開始後四〇分くらいたつたころから政雄が疼痛を訴えるなどしたため、途中で全身麻酔に切り換えた。そしてその際、筋弛緩を得る目的で、サクシンを二ccずつ二回、一ccずつ四回それぞれ使用した。しかし虫垂を見つけることはできなかつた。全身麻酔の際には全身管理を行わなければならないがこれを一人で手術をしながら長時間行うのは困難であること、補助者がいないために視野がうまく出せないことなどから、岡野医師は午後八時ころもはやこれ以上手術を行うのは不可能であり、翌日再手術するしかないと判断した。そして虫垂が存在していると思われる部位にドレーンを挿入したうえ、ドレーンの先を外に出して手術創を閉じ、午後八時二〇分手術を終了した。なお岡野医師は全身麻酔に切り換える際に宮田医師に応援を求めたが同医師は麻酔の経験がないことを理由にこれを断つた。
政雄は、右手術後しばらくしてから腹部痛を訴えるようになつた。被告病院の看護婦が痛み止めの注射をするなどした。
2 同月一〇日午後五時四〇分から政雄に対する再手術が行われた。術者は岡野医師、助手は片山医師、麻酔医は緒方医師であつた。手術は全身麻酔を施したうえで行われ、虫垂は切除されたが、虫垂はすでに穿孔しており、右側腹部、肝屈曲部のあたりに濃い膿汁があつたほか、虫垂、肝床、漿膜に膿苔が付着しており、また大網は炎症のため萎縮していた。しかしウインスロー孔には膿汁はなかつた。医師は膿苔を取り除き、ウインスロー孔及びダグラス窩にドレーンを挿入し、ドレーンの先を外に出して手術創を閉じ、午後七時一〇分手術を終了した。
3 同月一一日以降同月二九日までの政雄の症状経過は次のとおりであつた。
(一) ドレーンからは、同月一八日ころから緑膿苔の排出が、同月二〇日ころから膿汁様の排液が認められるようになった。これらは同月二三日ころ以降は認められなくなつた。しかし同月二八日膿の排出がみられた。
(二) 腹痛は認められたが、常に認められたわけではなく、その程度も必ずしも強くはなかつた。
(三) 同月一五日に筋性防禦が認められたが、これが認められたのは同日だけであつた。
(四) 同月一五日及び一六日におう気が認められたが、同月一七日以降は認められなくなつた。しかし同月二七日に再び出現した。おう吐は認められなかつた。
(五) 呼吸障害や頻脈、血圧下降などの循環障害は認められなかつた。
(六) 体温は、同月二三日までは、三七度を超えることがあつたが、最高37.5度で、それ以上に上昇することはなかつた。同月二四日以降は、36.5度前後を保つようになつた。
(七) 白血球数は同月一二日、一六日にはいずれも約一万であつたが、同月一八日には一三五〇〇になつた。しかし、その後下がり同月二八日には八五〇〇になつた。
(八) 顔ぼうは同月一六日にはやや苦悩状になつた。
(九) ワゴスチブミン、イミダリンを与え浣腸をすれば排便はあつた。しかし自然の排便があつたのは同月二一日から二三日までの間だけであつた。
(一〇) 同月一二日から同月一八日まで腹部膨隆が認められた。その後一たんは認められなくなつたが、同月二三日以降再び認められるようになつた。
(一一) 腸雑音は、ほぼ一貫して聴取することができた。同月一五日、一七日には有響性のものであつた。また同月二七日、二八日にはやや有響性のものであつた。
(一二) 同月一五日の腹部レントゲン所見ではガスが充満しニボーが形成されているのが認められた。同月一六日ないし一八日の腹部レントゲン所見では、一五日よりもガスは減つていた。同月一九日の腹部レントゲン所見では、多量のガスが認められたがニボーは認められなかつた。同月二三日の腹部レントゲン所見では多量のガス及び便塊が認められた。同月二四日の腹部レントゲン所見では小腸の係締が二か所認められた。同月二七日及び二八日の腹部レントゲン所見では腸輪郭が認められた。
(一三) ナトリウム、カリウムは、ほぼ一貫して正常値であつたが、クロールは第二回手術直後を除き正常値よりも低かつた。総たんぱくは同月一六日から一八日ころは正常値であつたが、他の時期には正常値よりも低かつた。
4 右3の症状に対し、被告病院の医師は次のような治療を行つた。
(一) 右3の記載のとおりほぼ毎日ワゴスチグミン、イミダリンを投与し浣腸を行つた。
(二) 右3記載のとおりドレーンによる排液、排膿を行つた。
(三) 同月一一日、一二日、一五日昼食から二二日夕食まで及び二九日には食事を禁止し、他の日についても流動食等を与えた。
(四) 同月一五日から二〇日、二七日及び二八日には胃管によつて胃内容を吸引した。
(五) 抗生剤として、同月一一日から一七日まではケフリンを、同月一八日から二九日まではリラシリンをそれぞれ投与した。
(六) 水分、電解質等を補うために毎日輸液を行つた。
5 被告病院の医師は、同月二七日ころ、右4のような保存的療法だけではもはや治すことは困難であると判断し、同年三月一日午後二時二八分から、政雄に対し腸閉塞を除去するための手術を行つた。術者は片山医師、助手は岡野医師、麻酔医は緒方医師であつた。全身麻酔を施したうえ政雄の腹部を切開した。すると、小腸の遠側が三分の二にわたり腹壁の前回の手術創に密に癒着していた。そのため腸の閉塞部位を確認することが難しく、癒着をはがして閉塞部位を確認するまでに、漿膜を欠損し穿孔を数か所作ることになり、その結果、腸管を二か所合計一メートルにわたり切除しなければならなかつた。手術は午後八時二六分終了した。手術終了後、被告病院の医師は、與子らに対し、政雄は栄養状態が悪く体力も消耗していたので、縫合部位に縫合不全が生じ、これから汎発生腹膜炎が生じ、生命の危険におびやかされる可能性が高い旨の説明を行つた。
6 その後、政雄の症状は更に悪化した。すなわち、腹痛、筋性防禦、抵抗はほぼ持続していたし、浣腸をしない限り排便はなかつた。同月八日ころから胃部不快感を訴えるようになり、同月一二日からは胃から出血するようになつた。ドレーンからの排液は同月七日ころから膿性になり、更に同月八日ころからはドレーンから便が出るようになつた。また同月八日、色素剤の投与により第三回目の手術時における腸の縫合部位に縫合不全が生じていることが確認された。体温は、第三回目の手術後数日は三七度前後であつたが、同月七日には38.3度まで上昇し、同月八日には下降したが、同月一四日ころから三八度前後に上昇した。白血球数は、同月二日には一三七〇〇であつたが、その後低下し、同月八日には六六〇〇となつた。しかし、再び上昇し、同月一〇日には一一〇〇〇、同月一一日には九二〇〇、同月一二日には一三三〇〇、同月一五日には一六六〇〇となった。カリウム、クロールの値は徐々に低下し、同月八日以降は正常値を下回つた。
7 そして政雄は同月一九日午前五時一五分死亡するに至つた。直接の死因は汎発性腹膜炎と診断された。
三腹膜炎及び腸閉塞
<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができ<る。>
1 腹膜炎
急性化膿性腹膜炎については次のようにいわれている。
(一) 意義
急性腹膜炎は種々の原因で起こるが、物理的・化学的原因だけで細菌感染を伴わないものを非細菌性腹膜炎といい、細菌感染によるものを細菌性腹膜炎という。腹膜炎として臨床的に問題になるのは細菌性腹膜炎である。化膿菌の感染によつて腹腔中に膿汁を形成するので化膿性腹膜炎と呼ばれる。
病変が腸管・大網などによつて保護包埋され腹膜腔の一部に限局している場合を限局性腹膜炎といい、限局化の傾向がなく、腹膜腔全体に進展拡大するものを汎発性腹膜炎という。
(二) 発生原因
腹膜腔に強力な感染源があり、これらから持続的に腹膜腔が汚染されて起こる場合がほとんどである。原因は、腹腔丙の化膿性病変の穿孔による場合と胃腸内容・胆汁・尿などの腹腔内流出による場合とに分類される。前者は、急性壊疽性虫垂炎の穿孔によることが最も多い。後者のうちには、術後の縫合不全によるものがある。
(三) 病理
腹膜に炎症が起これば漿膜下の血管は拡張充血し、腹膜は光沢を失い、混濁し、帯赤色浮腫状に腫脹する。毛細管の透過性亢進により、線維素に富む多量の液体が腹腔内にしん出するが、やがて細胞成分の増加とともに膿性に変わる。
初期には腸管は反射性に運動停止する。その後、汎発性腹膜炎では、腸管は、炎症の進展とともに麻痺、拡張し、麻痺性腸閉塞の状態となる。限局性腹膜炎では、腸管は運動を回復し麻痺性腸閉塞に陥ることはない。しかし治癒の過程でしばしば癒着による機械的腸閉塞を引き起こす。
腹膜面及び腸管から吸収された毒素は、中枢性に、体温の上昇・呼吸促迫・脈拍頻数・意識障害などをきたすだけでなく、新陳代謝を障害して全身状態を悪化させる。これらは汎発性腹膜炎では重く、限局性腹膜炎では軽微である。
(四) 症状
(1) 汎発性腹膜炎
(ⅰ) 局所症状
① 疼痛
(ア) 自発痛 疼痛は一般に激甚で持続性である。初期には上腹部あるいは腹部全体に感ずることもあるが、やがて病巣付近に限局し漸次腹部全体に広がつていく。
(イ) 圧痛 初期には病巣を中心に限局しているが、病変の拡大とともに腹部全体に広がる。
② 筋性防禦
筋性防禦は病変の拡大に一致して現われる重要な症状である。腹筋が発達した人ではそのために腹壁が板状硬に陥没することがある。
③ おう吐
初期のおう吐は反射性のものでおう気を伴い、吐物は胃内容である。麻痺性腸閉塞の状態になるとふん性の腸内容を吐出する。
(ⅱ) 全身症状
① 呼吸障害
腹式呼吸が障害され、呼吸は浅表となり末期には循環障害も影響して鼻翼呼吸を営む。
② 循環障害
種々の因子の影響をうけて脈拍は微弱頻数となり、ついには血圧下降、チアノーゼをきたし循環不全に陥る。
③ 体温
初期から悪寒戦りつを伴つて高熱を発するものと漸次上昇するものとがある。
④ 白血球
白血球は増加し、核は左方に移動する。
⑤ 顔ぼう
初期から不安状・苦もん状を呈し、病気の進行とともに急速にしようすいし、眼球は陥没して頬部は削痩し、いわゆる腹部顔ぼうの状態となる。
(2) 限局性腹膜炎
(ⅰ) 局所症状
発病の初期には原発巣を中心としてかなりの範囲に腹膜刺激症状をみるが、やがて自発痛、圧痛、筋性防禦などは一定範囲に限局し、限局性腹膜炎の像が明瞭になり、膿瘍周囲の腸管、大網などはしばしば炎症性腫瘤として触知される。
(ⅱ) 全身症状
体温は一般に上昇し、ことに膿瘍を形成したものでは弛張熱をみる。また白血球は増加する。しかし脈拍そのほかの全身症状は軽微である。
(五) 治療
治療としては保存的療法と手術的療法がある。
(1) 保存的療法
(ⅰ) 飲食を禁止する。
(ⅱ) 胃管による胃内容の吸引を行う。
(ⅲ) 水分、電解質等を補うために輸液を行う。
(ⅳ) 抗生剤の全身投与を行う。
(2) 手術的療法
外科手術の要点は、(ⅰ)起炎物質及び炎症性産物の排除と(ⅱ)原発巣の処理の二点である。まず膿汁を徹底的に排除し、ついで全身状態が許せば原発巣を切除あるいは縫合閉鎖するのが原則である。
また術後ひきつづいて産出される炎症性産物の排除の目的で、原発巣の部や膿汁貯留のおそれのある部にドレーンを挿入する。
(3) 保存的療法と手術的療法の選択
汎発性腹膜炎の場合は、保存的療法を施して全身状態の改善をはかり、可及的速やかに手術を行う。限局性腹膜炎の場合は、一応保存的療法を強力に行い、それでも経過が思わしくないときは手術を行う。
2 腸閉塞
腸閉塞については次のようにいわれている。
(一) 分類
発生機序により腸閉塞を分類すると次のようになる。
(1) 機械的腸閉塞
(ⅰ) 単純性腸閉塞
① 先天性のもの
② 腸管内腔に存在する異物によるもの
③ 腸管の器質的変化により腸内腔の狭窄を生じ起こるもの
(ア) 瘢痕性狭窄 (イ) 腫瘍 (ウ) 癒着 (エ) 屈折 (オ) 索状物による腸管の緊圧 (カ) 腸管への外部からの圧迫
(ⅱ) 絞扼性腸閉塞(血行障害を伴う腸閉塞)
① ヘルニア嵌頓によるもの
② 癒着によるもの
③ 腸重積症
④ 腸捻転症
⑤ その他
(2) 機能的腸閉塞
(ⅰ) けいれん性腸閉塞
① 異物によるもの
② 腸の反射運動の異常亢進
③ 腸内潰瘍形成
④ 中枢神経系の興奮
⑤ 鉛中毒
⑥ その他
(ⅱ)麻痺性腸閉塞
① 腹腔内感染症
② 開腹手術後
③ 腸間膜血管の血栓形成、塞栓などによる血行の杜絶
④ 腹部外傷
⑤ 脊椎損傷その他による神経麻痺
⑥ 重篤全身感染症その他による中毒性のもの
(二) 右のうち、機械的腸閉塞については次のようにいわれている。
(1) 発生原因
発生原因は右(一)記載のとおりである。単純性腸閉塞の過半数は癒着を原因とするものであり、癒着を原因とする単純性腸閉塞の大部分は前回の手術後に生じたものである。そして、その手術の主なものとしては、胃切除術、虫垂切除術、婦人科手術、腸閉塞手術、結腸・直腸手術などがある。
(2) 症状
(ⅰ) 腹痛
機械的腸閉塞では腹痛のないことはきわめてまれである。疼痛の性質は仙痛様で波状のことが多い。
(ⅱ) おう吐
おう吐も代表的な症状であるが、閉塞の部位や閉塞の形が異なるとおう吐の程度も異なる。
(ⅲ) 便秘
完全な閉塞が起こつていても、閉塞部より下部の腸の内容はふん便として排せつされうる。しかし最初の浣腸で排便あるいはガスの排せつが全くない場合は閉塞の可能性がきわめて強い。
(ⅳ) 腹部膨隆
種々の程度の腹部膨隆が起こる。
(ⅴ) 腸運動の亢進
腸の運動亢進により腸雑音が増強する。この音はハイピッチの金属音で限局した部分に特に強い。麻痺性腸閉塞では腸雑音が完全に消失するので、麻痺性腸閉塞と鑑別するための重要な所見である。
(ⅵ) 腹部ガス像
腹部単純レントゲンでは、ガス陰影を観察することが大切で、小腸でガスと液体とが共存しているので立位撮影では多数の水平面(ニボー)をみることができる。
(3) 単純性と絞扼性の違い
絞扼性の場合は、右の症状は早期から非常に強く起こり、急速に進展する。頻脈、血圧下降などショック症状が起こり、疼痛は強く持続的である。そのほか、腹部圧痛、筋性防衛、腹膜刺激症状も出現する。
(4) 治療
治療としては保存的療法と手術的療法とがある。
(ⅰ) 保存的療法
① 飲食を禁止する。
② ワゴスチグミン、イミダリン等を与え浣腸を行う。
③ 胃管による胃内容の吸引、イレウス管による胃・腸内容の吸引を行う。胃内容の吸引のみでも効果はあるが、更に腸内容の吸引も行うと非常に有効である。
④ 水分、電解質等を補うために輸液を行う。
⑤ 高圧酸素療法(気圧の高い密閉された部屋の中に患者を入れて高濃度の酸素を吸入させること)を行う。これは相当効果のある治療法である。
⑥ 中心静脈栄養法(細い管を中心静脈に入れ栄養補給を行うこと)を行う。
(ⅱ) 手術的療法
手術により閉塞を除去する。除去が不可能な場合には腸ろうの造設などを行う。
(ⅲ) 保存的療法と手術的療法の選択
保存的療法と手術的療法の選択の基準は、患者の病態、特に腹部所見、排ガスの状態、腹痛の程度、腹部単純レントゲン撮影の所見等によつて決定される。保存的療法によるときは次の各点について留意する。
① 単純性腸閉塞であること
② 一般状態の良好なこと、特に体温上昇、白血球増多症のないこと
③ 疼痛の激しくないこと
④ 腹部膨満が強度でなく、増進傾向を示していないこと
⑤ 腹部単純レントゲン撮影による腸型による膨満の増強傾向を参考にすること
⑥ 造影剤の胃内注入によつて経過を観察できる場合のあること
第二右第一で認定した事実に基づき原告らの請求の当否について判断する。
一被告の責任
1 第一回手術の失敗について
(一) 原告らは、岡野医師は、政雄の虫垂の位置異常及び癒着の可能性を考えて、全身麻酔を施し、執刀医、麻酔医及び助手の三名の医師で政雄の第一回虫垂切除手術を行うべきであつたと主張する。しかし、証言に鑑定の結果を総合すると、前記第一の二の記載の政雄の第一回手術前の症状から政雄は急性虫垂炎と診断されたものであるが、右の症状からは政雄の虫垂の位置異常や癒着の可能性を考えることは困難であつたこと、急性虫垂炎の場合、麻酔は成人であれば腰椎麻酔で十分であることが認められる。また右各証拠によつても、急性虫垂炎の場合、医師の人数は複数であることが望ましいとはいえるが、一人で行つてはいけないことまで認めることはできず、他にこれを認めるに足る証拠はない。したがつて原告らの右主張は失当である。
(二) 原告らは、岡野医師は、腰椎麻酔が十分に効いているかどうかの確認を怠り、いまだ麻酔の効果が生じていないにもかかわらず第一回手術を行つたと主張する。しかし前記第一の二の記載の第一回手術の経過からすれば、政雄が疼痛を訴えたのは、手術開始後四〇分くらいたつたころからであると認められるから、岡野医師は麻酔の効果が生じていないにもかかわらず第一回手術を行つたということはできず、原告らの右主張は失当である。
(三) 原告らは、岡野医師は第一回手術において、サクシンの使用量を誤まつたと主張する。しかし、岡野医師の第一回手術におけるサクシンの使用量は前記第一の二の1で認定したとおりであるところ、鑑定の結果によれば、この使用量は適切であつたと認められるから、原告らの右主張は失当である。
2 第二回手術の時期の遅れについて
(一) 原告らは、政雄に対する第二回手術は昭和五一年二月一〇日の午前中にすべきであつたと主張する。しかし前記第一の二の1の記載のとおり、政雄に対する前日の手術は午後五時五八分から同八時二〇分まで二時間余りをかけて行われ、また右手術は、虫垂が存在していると思われる部位にドレーンを挿入したうえ、ドレーンの先を外に出して手術創を閉じて終了したものであるところ、証言に鑑定の結果を総合すると、第二回手術を行うに当たり、更に諸検査を必要とした(もつとも、右検査にはせいぜい二時間もあれば十分である)こと、右のように前日遅くまで、かなり長い時間をかけて手術した場合には、体力の回復という点からすれば、次の手術まである程度の時間をあけた方がよいこと、右のように腹腔内にドレーンが挿入してある等の状況からすれば、第二回手術は、それほど早い時期に行わなくてもよかつた(むしろ、体力の十分な回復をまつて、二、三週間後に行つてもよかつた)ことが認められる。よつて原告らの右主張は理由がない。
(二) また原告らは、第二回手術時に政雄には汎発性腹膜炎が発症していたと主張する。しかし、前記第一の二の2記載の第二回手術時の所見からすると、病変は腹腔内の一部にとどまつていたということができること、その後第三回手術までの政雄の症状経過は前記第一の二の3記載のとおりであつたと認められるところ、この症状経過を前記第一の三の1の(三)及び(四)記載の腹膜炎の「病理」及び「症状」に照らすと、政雄の症状は比較的軽く、しかも軽快していつたということができ、このことからすれば、政雄の第二回手術時の腹膜炎は限局性腹膜炎であつたということができ、汎発性腹膜炎であつたとの原告らの右主張は失当である(もつとも<証拠>によれば第二回手術の麻酔記録などには、汎発性腹膜炎との記載があることが認められるが、これらは麻酔医や事務員が記載したもので必ずしも信用することができず、限局性腹膜炎であるとの右認定を覆すに足りない。)。
3 腹膜炎及び腸閉塞の不適切な治療について
(一) 原告らは、被告病院医師の第二回手術後の政雄に対する腹膜炎の治療は不適切であつたと主張する。しかし、被告病院の医師が第二回手術後に行つた治療の内容は前記第一の二の4記載のとおりであるところ、これを前記第一の三の1の(五)の(1)記載の腹膜炎の「保存的療法」に照らすとともに、証言及び鑑定の結果を総合すると、被告病院の医師が第二回手術後に政雄に対して行つた治療は、腹膜炎の治療として適切であつた(後記(二)に記載したように、腸閉塞の治療として、高圧酸素療法や中心静脈栄養法等を用いなかつたとの点を除く。)ということができるから、原告らの右主張は失当である。
(二) 前記第一の二の3記載の症状経過を前記第一の三の2の(二)の(2)及び(3)記載の機械的腸閉塞の「症状」及び「単純性と絞扼性の違い」に照らすと、政雄には第二回手術後に単純性の機械的腸閉塞が生じ、これは昭和五一年二月二〇日ころから一時軽快したが同月二四日ころから再び悪化したと認められる。そしてこの腸閉塞に対し、被告病院の医師は前記第一の二の4記載のとおり治療を行つたものであるが、これを前記第一の三の2の(二)の(4)記載の機械的腸閉塞の「治療」に照らすと、被告病院の医師は、禁食、ワゴスチグミン、イミダリン等の投与と浣腸、胃管による胃内容の吸引、輸液などは行つたものの、イレウス管による胃・腸内容の吸引、高圧酸素療法、中心静脈栄養法といつた有効な治療法を用いなかつたということができる。もつとも証言に鑑定の結果を総合すると、高圧酸素療法、中心静脈栄養法は比較的新しい治療法であり、設備なども必要であると認められるから、昭和五一年二月当時被告病院において行うことができなかつたとも考えられる。しかし右証拠によれば、当時においても大病院ではこれらの治療法は行われており、政雄を転院させればこれらの治療を受けさせることが十分に可能であつたと認められる。
4 第三回手術の失敗について
前記第一の二の5の記載のとおり、被告病院の医師は、腸の閉塞を除去することを目的として政雄に対し第三回手術を行つたが、政雄の小腸は密に癒着していたため、腸の閉塞部位を確認することが難しく、閉塞部位を確認するまでに、漿膜を欠損し穿孔を数か所作ることになり、その結果、腸管を二か所合計一メートルにわたり切除しなければならなくなつたものである。そして証言及び鑑定の結果に弁論の全趣旨を総合すると、腸の閉塞を除去することを目的として第三回手術を行う以上、右のようにして腸管を切除しなければならなくなることを避けることは困難であり、しかもこのことを被告病院の医師は予測することができたと認められる。
前記第一の二の6記載のとおり、右手術後右手術における腸の縫合部位に縫合不全が生じ、政雄は、前記第一の二の7記載のとおり、その後汎発性腹膜炎により死亡したのであるが、前記第一の三の1の(二)記載のとおり術後の縫合不全は腹膜炎の発生原因となること、前記2の(二)記載のとおり、政雄の右手術前の腹膜炎は限局性であり、しかも軽快していつていたことからすれば、右汎発生腹膜炎の主な原因、すなわち政雄の死亡の主な原因は、右縫合不全であるということができる。
そして前記第一の二の3記載の右手術前の政雄の症状及び5記載の右手術後の被告病院医師の説明の内容に、<証拠>並びに鑑定の結果を総合すると、政雄は総たんぱくの値が正常値より低いなど栄養状態が悪く、また既に二度にわたる手術により体力も低下していたことが認められ、このような身体の状態の下で、更に手術を行い腸管を切除すれば、縫合部位に縫合不全が生じ、これから汎発生腹膜炎が発症し、生命が危険に頻することを被告病院の医師は容易に予測することができたと認められる。
更に、前記3の(二)で述べたところに、前記第一の二の3記載の政雄の右手術前の症状、前記第一の三の2の(4)の(ⅲ)記載の機械的腸閉塞の「保存的療法と手術的療法の選択」並びに証言及び鑑定の結果を総合すると、政雄の腸閉塞は、前記3の(二)記載のとおり同年二月二四日ころから悪化したが、腸管に腸ろうを造設する手術を行うとともに前記3の(二)記載のイレウス管による胃・腸内容の吸引、高圧酸素療法、中心静脈栄養法といつた治療を行えば、腸の閉塞を除去する手術をしなくても改善は十分に可能であつたと認められる。
以上述べたところを総合すると、被告病院の医師は、政雄に対し、腸の閉塞を除去することを目的として、第三回手術を行うべきではなかつたということができる。ところが被告病院の医師は、前記のとおり、腸の閉塞を除去することを目的として第三回手術を行い、その結果政雄を死亡させたのであるから、被告病院の医師は政雄の死亡につき過失があるというべきである。
5 よつて被告は民法七一五条に基づき政雄の死亡による損害を賠償する責任を負う。
二損害
1 逸失利益
<中略>
そして、政雄の生活費控除は四〇パーセントとし、中間利息はライプニッツ方式により控除するのが相当である。
政雄の逸失利益<は>二九二六万七九一五円となる。原告らは右の逸失利益を各三分の一(九七五万五九七一円)ずつ相続した。
2 慰謝料
慰謝料の額は、政雄固有の慰謝料として三六〇万円、與子に対する慰謝料として二五〇万円、信男及び春夫に対する慰謝料として各一五〇万円が相当である。
3 葬祭料 五〇万円
4 弁護士費用
與子は一二〇万円、信男及び春男は各一一〇万円が相当である。<以下、省略>
(岡崎彰夫 吉野孝義 森義之)
別紙(一)〜(三)<省略>